htomine と インターネット と 生活

htomine (とみね) の生活について書きます。

アバターと私と2019

こんにちは、とみねです。
この記事は cluster Advent Calendar 2019 - Adventar 9日目の記事です。

というわけでclusterのアドベントカレンダー、やっぱりバーチャルに関することを書こうかなと思うわけです。
そこで今年一年を振り返ると、自分としては「アバター」という概念について思うことが増えたなあ、というのが感想でした。

去年のAdvent Calenderにかいた通り受肉したのがちょうど1年前。

受肉する、ということは書いた通りあまり自分事として考えていなかったのですが、やはりしてみるとわかることもありました。
昨年来自分のアバターとして存在してもらっている「遠見海(とおみ うみ)」ちゃん。

f:id:htomine:20191208235646p:plain

昨年の記事からも少しアップデートし、髪の造形を整えたり、いろんな衣装を揃えたりしてみました。
また、趣味の自作キーボードの領域でも活躍してもらっていて、Luppetをつかった組み立て動画の配信なんかもやってみました。

配信に関しては、とにかく「いてくれるだけで映えるなーーー!」ということですね。Luppet とはLeap Motionというセンサーデバイスを使って手軽に自分の動きをVRMアバターに反映させられるデバイスなんですが、自作キーボードのキット組み立てというはちゃめちゃ地味なシーンも、「なんかかわいい子が手をうごかしてるぞ…!」というだけで結構映える絵になるので驚きでした。
他にも、コミックマーケットへの参加の際のサークルカット

f:id:htomine:20191209000801p:plain

これも、イラストが描けない民としてはなかなか手軽に映えさせることができたかなと思います。好きにポーズをとってもらえるのも助かるところですね。
同じように、「天下一キーボードわいわい会 Vol.2」のお品書きです。

f:id:htomine:20191209001150p:plain

f:id:htomine:20191209003510p:plain

自分にとってこうした企画でサークルとして出展するにあたって、屋号というものは特にイメージの無いものでした。
海ちゃんをアイコンとして使うことは、前述のとおり見た目にハマる感じが出せることもあるのですが、やはり「自分のアイデンティティを反映したキャラクターである」というところで、圧倒的に「しっくりくる」ものがあります。
海ちゃんとはアイコンであり、自己表現でもある。そういう存在がいてくれることは、自己表現を社会と接続させることにおいて、とてもやりやすいなあと感じました。
例えば自分のアイコンとして10年近く使っている下記の画像。

f:id:htomine:20191209003219g:plain

これだって立派にアバターとしての役割を果たしてくれているわけですが、これはあくまで、自分が使ってきたことで逆説的に「自分」になっているだけなんですね。
そう思うと、これを軸にして屋号として出してみたり、自分を象徴するものとしてあえて出してみることって、結構「違うな」と。

海ちゃんは、自分の好みや嗜好をまさに反映したキャラクターなわけです。例えばミリタリーであったり、タトゥーが入っていたり、ビビットなパープルのグラデが入った髪色であったり。
自分はずっと↑の緑の眼鏡アイコンを自分の「アイデンティティの表現」だと思いこんで使っていました。それは、確かにずっと使うことで自分を示すアイコンにはなっていると思うのですが、海ちゃんに込められているような表現ってしようがないしできていないわけです。
そういうところが、「キャラクター」の懐の深さなんだなあ、と感じました。


一方難しいなと思ったのは「声」です。
そもそも私の考えとして、「自分のアイデンティティをオンラインに乗せていきたい」ということがあり、いわゆる「バ美肉」しきることにそこまでモチベーションがないことは前の記事でも書いたとおりで、それはいろいろと活動してみる中でも変わらないつもりでした。

とはいえ、やはり「声」抜きで存在する海ちゃんは、どこか空疎に感じます。
特にそのことを考えるようになったのは、バーチャル空間で仲良くしたい人ができてからでした。

元々はリアルの知り合いから仲良くなり、もっと仲良くなりたいなと思っていたのですが、その人は当時、VRで活動する、生きることに強い関心を持っていました。
まぁ色々背景はあるのですが自分としては単に、どうしたらその人と仲良くなれるか、というところに興味がいくわけです。

じゃあ VRChat で会いましょうとなったとき、自然と私は海ちゃん、その人はその人のアバターで会うことになりました。
相手は声も含めてバーチャルな存在として在ろうとしている中で、自分は中途半端に外見だけアバターをまとって、声はそのままで。もちろんそういう在り方も許されるのがバーチャルとは思いますが、相手との関係の中でそれは、とても中途半端な気がしました。

というわけで早速ソフトウェアボイスチェンジャの環境を整えてみたわけですが、単に遅延を含んだ状況で会話するのが難しい、というだけでなく、「自分が自分以外の声を出す」というのがとてもハードル高く感じました。
けどたぶんこれって慣れの問題なんですよね。しかし家で練習しようにも、すぐ後ろには妻が寝ている状態であり、自分がハイトーンな声でしゃべり声出しの練習をする、、というのが猛烈に恥ずかしい!
しょうもない感情だとはおもいつつもやり切れませんでした。。
その後友人がスタジオを借りる際に便乗して密室で練習してみたりもしましたが、結局ものになる前に練習をやめてしまいました。

でも、バーチャルでイチャイチャする体験はめちゃくちゃ良かったです。おすすめ。*1


そんな体験もあり、「アバターってリアル世界の身体性から自由にしてくれるもの…なんだろうか、本当に」と思うようにもなりました。

身体性からの解放も一定事実だろうなとは思っていて、私自身もいわゆるゲームの世界でアバターに自身を託すことはこれまで何度も何度も行ってきました。
私は自分自身を好きなほうだと思いますが、それでも常に、自分を捨てて誰かになりたい、こうでない自分があったらどうだろうか、と想像することはあります。だれしもあることだと思います。
アバターカルチャーが「ゲーム」の枠を超えて使われだすのがこれからの未来だとして、そういう願望が手軽に叶えられることは悪くないことで、アバターでできることが増えていくことは純粋に利のあることのようには感じます。

一方で、前の段に書いたようにそうなり切ることってやはり難しいことです。技術的なハードルの高さもあるでしょうし…また、例えばバーチャルで理想の自分となったあとで、現実の自分に戻らなければいけないとしたらどうでしょう。
とらえ方は人によると思いますが、より理想が具体化するだけ、ギャップもくっきりと見えてしまうのかもしれないなと思います。
無邪気にアバターが人類の可能性を広げてくれる、と思うこともありましたが、それだけで救いが訪れるわけではないのかもと思うようになりました。

f:id:htomine:20191209013900p:plain
はいかわいい

もう少しシンプルな考え方として、いずれにせよ可能性は広いほうがよい、とはおもいます。アバターや、アバターが活躍できるバーチャル空間の存在は今後より大きくなっていくと思いますし、それらが担えることも増えるでしょう。
それで完全に救われるわけではないとしても…すくなくともその時に希望の一つになりうるくらいには、それらの存在を大きくしておきたいもので、加速のし甲斐があるものだと感じます。


というわけではちゃめちゃふわっとした随想をお送りしました!バーチャルやっていきましょうですね。
明日はるーしっどさんによる「VRイベントに関するポエム」の予定です!お楽しみに~

*1:(ちなみに弊家の関係性の持ち方は色々あるのでこれらの事情も妻とは共有していますよ)